子育てに悩むあなたへ

教育こそ、共育。

──子どもの“当たり前”は、
家庭でつくられていく。


赤子の頃、
ただ生きてくれているだけで、
胸がいっぱいだった。

ミルクを飲んでくれた。
眠ってくれた。
泣いて、笑ってくれた。

それだけで幸せだったはずなのに。


成長するにつれて、
できることが増えていく。

寝返りをして、
はいはいをして、
歩いて、走って、言葉を覚えて。

「できるようになってほしい」と
願っていたことが、
いつの間にか——

「走り回らないで」
「静かにしなさい」
「ちゃんとしなさい」

に変わっていく。


勉強を始めれば、
「もっと真面目に」
「もっと頑張りなさい」

食事も、
最初はお乳を飲んでくれるだけで
嬉しかったのに、

「好き嫌いしないの」
「ちゃんと噛みなさい」

歯は磨いた?
手は洗った?

昨日まで一緒にやっていたことが、
いつの間にか「できて当たり前」になる。


これは、
親が冷たくなったからじゃない。

子どもの成長に、
親の心が追いつかなくなる瞬間がある
それだけだと思う。

そしてそのズレが、
「教育」という言葉の中で、
少しずつ“正しさ”にすり替わっていく。


子どもにとっての「当たり前」は、
学校や社会が作る前に、
家庭の中で形づくられていく。

何が普通で、
何が大切で、
人とどう向き合うのか。

それは、
親の言葉よりも、
親の“日常の在り方”から伝わっていく。


だから、
家庭が違えば、常識が違って当たり前。

他の家と比べる必要もないし、
「普通はこう」という正解もない。

寿司屋に流儀があるように、
家庭にも、それぞれの文化がある。

どれが正しいかじゃない。
何を大切にしているか。

それだけでいい。


教育とは、
子どもを“型にはめること”じゃない。

そして、
親の価値観を押し付けることでもない。

教育とは、
親もまた、子どもと一緒に育っていくこと。

だからこそ、
教育は一方通行じゃない。

教育こそ、共育。


子どもは、
親の言った通りには育たない。

でも——
親がどう生きてきたかの通りに育つ。

感謝する姿。
人を大切にする姿。
失敗した時の向き合い方。

それら全部を、
子どもは黙って見ている。


もし今、
「これでいいのかな」と迷っているなら。

それは、
あなたが子どもと真剣に向き合っている証。

正解がないからこそ、
悩む価値がある。

そしてその悩みの中で、
親もまた、育っていく。


次回は、
誰もが一度は苦しむテーマ。

「怒る」と「叱る」の違い。
そして、子どもの人生をどう手放していくか。

そこに踏み込んでいこうと思う。

寿司職人
すし処とし 大将・森敏也